岩波の雑誌「科学」、昭和29年5月号の座談会のテーマは「原子力」でした

 我が家の映画・演劇グッズ発掘物の中から昭和各年代を並べているのだが、さすがに昭和20年代のものがない。そこで、今までの流れとは違うと承知しつつ、雑誌の話題をひとつ。岩波書店の「科学」の1954年(昭和29年)5月号の表紙...

 表紙に目次が出ているのだが、巻頭が「原子炉建設と原子力憲章」。中程に「日本の原子力研究をどう進めるか」という座談会があります。メンバーを見ますと、この後、1965年(昭和40年)にノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎氏の名前も見えます。

 この座談会を見て改めて感じますのは、冷戦の時代を反映して原子力開発の軍事利用に対する警戒感は強いのですが、エネルギーなどの平和利用については前向きで、安全性に対する警戒感も希薄です。座談会の中で、原子炉の安全性問題について言及したのは、杉本朝雄氏(科学研究所主任研究員)のこの発言だけです。

原子炉自身の安全性の問題もある。それについてイギリスのHINTONがひどく神経質な事を演説している。アメリカのSMYTHは多少違う見解ですが、HINTONは原子炉自身が爆発する危険性を心配している。例えば石墨型で水冷式の炉は場合によってはいろいろな安全操作が失効したとき、安全限界を超える可能性がある。カナダの炉が一度ウランの温度が上って爆発したが、ためしにHINTONは、“この臨界状態を超えた原子炉を一回やってみたい、アメリカは金もあるし、土地も広いから是非やってくれ、原子爆弾の実験よりためになる” といっている。従来の原子炉のデザインの上にためになる。

 チェルノブイリ・フクシマ後の今となっては、HINTONの指摘はまっとうなのだが、「ひどく神経質な事」ということで、この発言はこのままスルーされ、原子力関係の人材育成問題へと話は移ってしまう。原子力が民間利用でも巨大な惨事をもたらす恐れがあるということには、あまり関心がなかった風。

 原子力をエネルギー源として動く「科学の子」、鉄腕アトムの本格的な連載が「少年」で始まったのは1952年(昭和27年)らしいから、このころは科学が信仰されていた時代だったのだなあ、と改めて思う。科学を使う人間が正しい人なのか、邪悪な人なのかという議論はあっても、科学によって人間が全てを制御できると思うこと自体が正しいのかどうか、科学の進歩が人間に災危をもたらすことはないのか、という懐疑の念は薄かったように見える。20世紀は「科学の時代」で、21世紀は「環境の時代」になったということだろうか。そこがポスト・ヒロシマナガサキと、ポスト・フクシマ・チェルノブイリの違いだろうか。そんなことを考えさせる昭和29年の雑誌「科学」でした。

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